高橋レクチャラー、御疲れ様です。活力朝礼の素晴らしさを磐田市の会員に伝えて頂き 感謝しております。集いに参加したメンバーはほとんどが会員なんです。それも入会間もない会員なので、この活力朝礼のツールには私からも宣伝しておらず、みんな目を丸くして聞いていました。それを高橋レクチャラーの導入までの体験をふまえてのお話しは会員に朝礼への導入にむけてハードルを下げて頂きました。それを無駄にしたくはありません。
今夜は朝礼委員長が欠席していますが、会内で活力朝礼の導入にあたって、まずは朝礼の有無の現状把握をし、会内みんなが朝礼をまずはやらないところからやってみる、というところ。そして、その後はただの「礼」から「活力」にステップアップしているのか、というところを実践してみたいと思います。そしてそれが社内でどのように変化が起きているのか、実践報告を半年ぐらい先に発表してもらうように段取を取ってみます。私は朝礼とは社内神事だと思っています。一定の作法・形式で執り行われる儀式です。尊くておかしがたい、清浄で汚れない神聖なる朝礼が私が目指している朝礼です。活力朝礼をともに普及していく仲間があることを誇りに思います。ここでも高橋レクチャラーに倫理の実践におかれて、なかなかできない事でも「蔭の倫理」という言葉で、当会員の心を救って頂き、本当に有難うございます。この言葉は、私も初めて聞きました。とりあえず、ここからなら言いずらい、実践しずらいということでも出来そうです。高橋レクチャラーってホントに優しいですね。親との確執、連れ添いとの馴れ合いから生じるイザコザ栞の第2条の最初4行に詠ってあることの解決の糸口をさらさら~と、自身の体験を通して伝授して頂きました。傍聴者の中にはなぜだか、涙が頬をつたい止まらなかった、という感想を何人かから伺いました。自然に流れる涙は人を浄化する力があります。
私はこの純粋倫理の学びって、着ているものを脱いでいくという学びが一つあると思うんです。私達もう50を前にして騙されたり裏切られたり、傷付くことがいっぱいあったんです。だから傷付きたくないから着込んで痛みを緩和しようとする。そしてその攻撃にドンドン耐えるうちに物凄く着込んでしまい自分自身、痛みが麻痺してしまい、これならば痛くないだろうと 人に対しても攻撃し、自分が痛くないから人も痛くないだろう、と大きな勘違いしています。そして着込んでいる仲間同士が偽りの中で集まっている。私はこの倫理に出逢って、この着込んだものをひとつひとつ脱いでいきます。脱げばそれは「痛み」はあります。でも、それって純粋倫理が染み込んでいる証拠。倫理を学んで一回目に辞めたくなる時はみんなこの時なんです。これを乗り切ると人に対しても優しくなれる。その傷って自分を磨いている過程だったことに気付きます。「50にして天命を知る」なるほどなあ~と思う 今日この頃です。また御逢いできること楽しみです(≧▽≦)有難うございました。
磐田市倫理法人会 鈴木博久