病院で受付を済ませて面会です。案内された部屋は鉄の扉のむこうにありました。
テーブルに向かい、父は車いすに体を丸めるように小さく座っていました。力強いお父さんの姿はそこにはなく、痩せて、目に力もないように見えました。
私は近づき、「お父さん」と声を掛けました。
すると父は私たちを見るや、「苦労かけたね。申し訳ありません。」という言葉。その言葉に息を呑みました。
どこにも当たりようもなかった固まった気持ちの三十六年間。『親の心子知らず。』の年月。
長い長い反抗期がまさに終わった瞬間でした。
その日から私は、今日までできなかった父への精一杯の親孝行のつもりで、毎日、病院の父に宛てて、一日一通のハガキを書くようになりました。
「お父さんへ、今日はいい天気ですね」とか、「一緒に浜名湖へ潮干狩りに行きましたね」など、毎日毎日、短い文ではありますが、心に浮かんだ言葉に、その日目にしたものや風景を描いた絵を添えて出し続けました。
半年ほど続けたある日、病院から電話がかかって来ました。
思わず「その時」が来たか。と一瞬緊張して受話器をとりました。
「元気になられましたよ。退院をすすめたいのですが。病院で皆さんとボーリングしたりカラオケを歌ったりしています。」との知らせに、我が耳を疑いました。
それからというもの、私は休暇をとっては、父を病院から連れ出し、足湯に浸かったり、うなぎの老舗でかば焼きを食べたり、病院に内緒で一緒にビールを飲んだり。今までの空白を埋めるような思いの日々を父と過ごすことができました。
一昨年の六月二十九日に父は旅立って行きました。余命半年と言われてから三年。よく頑張って生き抜いてくれました。
一通の手紙が寿命を三日延ばすと聞いていた話は本当でした。幸福になる生活のすじみちである純粋倫理を学び、朝起きのおかげで、忘れかけていた恩意識に目覚め、三十六年間空白だった父との絆を取り戻すことができました。
父が他界してからは、毎日書き続けていたハガキは、出す相手がいないので書かなくなっていました。
しかし、倫理の学びはさらにもう一歩先を教えてくれたのです。
「切手は貼らなくていいですから、お父さんに宛てて書き続けてみたらどうでしょう。四十一年前のお父さんに会えますよ。」と、倫理研究所の講師からもこの奥の深い一言をいただき、その日から、姿の見えない父に会う実践を続けました。
すると、当時の、父の悔しさや悲しさを、感じることができました。そして、私たちの幸せを願って離れていったことが理解できました。
さらに手紙を書き続けていくうちに、父が身近に感じるようになってきました。父の声が、いろいろな人や物の姿を借りて聞こえてくるような気がします。
その時です。講師の言葉を借りて、またまた大切なことに気づかせてくれました。
父と再会したあの日、私は父の詫びる言葉を聞きました。しかし、私は父に詫びることができませんでした。
父の当時の気持ちを知った今、三十六年間抱いてきた恨みの気持ちを私は恥ずかしく思いました。本当に愚かで間違った自分を反省しました。
もう面と向かって詫びることができません。訳あってお墓もありません。そんな父にどうやって詫びればいいのだろう。そう思っていたところに、またアドバイスを頂きました。
「遺影がありますね。心から遺影に詫びましょう。」
「おとうさん、ごめんなさい。ずっとありがとうございました。」
講師からは、「これで親の子になれましたね。」と言っていただきました。
この清々しい感動を私は忘れません。
そしてこの人生の苦難を気丈に生きてくれた私の母がとても愛おしく思います。
「お父さんお母さん、ありがとう。」
親の子に なる
子の親になる
親になることが先にあるので
親になるって よく話題に出てくる
でも 子になる って あまり
考えたこと ないです
子…も 子に” なる “こと が大事
なんですね
眞子さん
コメントありがとうございます。
親の子であるのに、いつしか一人で意気がって。
一人前になったつもりで。
神様は全てお見通しなんですね。
すなおな自分に戻ったとき
元通りの
美しい関係になって、
親の子になるんですね。
大切なことを思い出すことができて
よかった。
倫理の世界は
単なる勉強団体ではありませんね。
真の救い主でしょう。