万里子さん、本当に有難うございました。そして御疲れ様でした。
今回の講話は金次郎先生のお話しというより、万里子さんの自伝話「良かったよー!\( ‘ω’)/」。子供の頃の話は僕の事を話しているのではないかと勘違いしてしまう程、似ています。「キ印の金次郎」農民なのに武士の勉強をしている。僕もそうでした。小学生なのにパチンコ屋にいる小学生なのに・・・。あまりにも(なのに)が多すぎて、しかもこの文面NET公開されるので、あんまり書けないのです。「キ印の少年博久」ですね。もしかして今でも蔭で呼ばれているのかもしれません(´;ω;`)ウッ…。
そんな万里子少女も「キ印?」そんな少女を救った、おばーちゃんの言葉「他人にどう思われようと自分自身を貫く力!」そう言って万里子さんの事を信じてくれる人がいたから今があるのですね。僕もそうでした、親戚には「末恐ろしい」そんなふうに言われていたと母親から聞いたことがあります。でも一番いやな言葉は「やっぱり親の子だな」と言われたら、たとえ大人であろうと飛びついて噛みついたことをぼんやりと覚えています。「俺は良いけど親を悪く言うな!」。唯一絶大なる信頼をしている。そして最後の味方、その親には苦労を掛けたくないと今でこそ思うのですが、当時は思いもつかなかったんでしょうね。迷惑ばかりかけていました。それでも、いつも後ろを振り返ると手を振って応援してくれてるのです。信じられることこそ人間力を向上する事が出来るんですね。その証拠に万里子さんが言っている「たとえどんな環境でも向き合っていく」という姿勢は誰にも負けないという自信だけは有るのです。両親には本当に感謝しているのです。
純粋倫理でいう15条「信ずれば成り 憂えれば崩れる」。信じることから始めなければ何も生まれないですもんね。最近思うのです。(神頼み)って言うじゃないですか。あれって頼み行く事柄に向かっていく自分を信じていないからじゃないのかって!いつも息子のレース(息子は駅伝選手)の前には神社に行って息子の勝利を願うのです。でもそれって息子を信じていないってことに繋がるんじゃないかと思うのです。神社に願い成就を乞うこと事態、事柄に憂いを感じているってことなんだと、最近なんとなくそうなんだなと思ったのです。
神事はとっても大事なことだとは思いますが、神に依存するよりも先に息子自信を真に信じる事が力を生むような気がするんです。それは万里子さんが三角形で示してくれた図のように、神様、それは根底のもので意味づけは{在るもの}だから、すでに{在るもの}に感謝するのが神様の立ち位置なので、息子の勝利は{在るもの}ではなく、これから{するもの}だから願いの順序が違いますよね!{在るもの・在りうるもの}の上に{するもの・するべきもの}が乗っかってきているので、{在るものには感謝して・するものには信じなければいけない}という事を 僕なりの解釈ですが学ばせてというより感じさせて頂きました。
テレビや新聞で耳を疑うようなニュースを見るたびに悲しい思いをします。世の中、何かが狂っている。政治が悪い!経済が悪い!・・・。悪くなった理由を揚げれば、いくつも原因は出てきます。でも今の時代その状態を評論し、自己の{在り方}の場所を確保して勘違いしている人を見ていると、それはそれで悲しくもなるし情けなくもなります。でも今回、万里子さんの講話を聴いて、みんな思ったに違いない。自分一人では何もできないから諦めてしまっている人たちに希望を与えて頂きました。
今日のように人が集まって集会となり「村」となり「町」「市」「県」「国」「世界」を構成している。という事は単純に「人」が変わればやがて「世界」も変えられるかもしれないという可能性を「人間だったら大欲を持とう」という言葉で導かれました。私欲・我欲も持ってさえいれば、いずれそれは大欲に繋がる。でも無欲・無関心はどうにもならない一番の大罪。マザーテレサが「愛の反対は無関心」と解いた言葉を用いれば「欲=愛」と捉えても確かに変ではないですよね。「欲を持って良くなろー!」と磐田市倫理法人会で叫んでいきます。そして『良い私(いいわたし)で(いいいわたし)良い磐田市』を一隅を照らすムーブメントを込めて創り上げていきたいです。
倫理法人会の性格と言えば「良い事は伝える」です。早速今日の話を誰かに伝えなきゃっ!「そうだ!まずウチの家族に伝えよーー(^^)/」。ワクワクドキドキ、次回エピソード2万里子の逆襲は 3/29です。轆轤首になってお待ちしております。
【おきばりやす~】 磐田市倫理法人会 鈴木博久