特攻の母”と慕われた鳥濵トメさん
ご存じ?
「あなたは,何かしなければならないことがあったから生かされた。」
こんなことを言われた。
以来、特攻で亡くなった仲間の遺族を探し出し,
出撃直前の様子等を遺族伝えて回った。
そんな父の姿をみて育った息子が語る。
人間の使命と、それを支えた妻の愛。
これを聴けば、経営者としての使命はぶれない。
まことの経営者よ、集合!!
次回の講話は、強くて優しくて深い。
テーマ『1036』 昭和20(1945)年8月15日太平洋戦争終戦。 陸軍特攻隊員でありながら生き残ってしまった,板津忠正の本当の戦いはそれからだった…。 昭和20(1945)年5月28日,僚機とともに鹿児島県・知覧基地から沖縄に向けて出撃。 両親と小学校の先生に宛てた遺書の結びには,『男子の本懐,これに勝るものなし』と書いた。当時,『軍神』とまで言われていた特攻隊員に選ばれたことは,最高の名誉であった。 『命を懸けて,祖国や家族を守ることができる。』 しかし,その思いとは裏腹に,搭乗機のエンジントラブルとはいえ,特攻出撃しながら『自分だけ生き残ってしまった…』 戦後,絶望感を背負い,生きがいを見いだせない空虚な日々。顔からは笑顔が消えていた。 『特攻の母』鳥浜トメとの再会が転機となった。トメの発した言葉は,板津にとってはまさに天の声,百万の味方の声であった。その言葉とは…。 まもなく板津が出した答えは,特攻隊員たちの死が,決して『犬死に』でも『無駄死に』でもなかったことを何らかの形で後世に正確に残すこと。陸軍特攻隊員の遺影や遺書をすべて集め,隊員たちを顕彰する殿堂を造ることが板津の夢となった。 『特攻を風化させてはならない。美化してもならない。』 執念ともいえるこの思いだけで全国行脚すること50年。知覧基地から出撃し,沖縄で散華された439名を含め,陸軍特攻隊員全員の遺影・遺書集めが完結したのは,平成7(1995)年。 戦後,自らに課した実現不可能とも思えた課題は,ちょうど50年の歳月を経て板津の献身的な努力の末に実を結んだ。 板津の志が半ばであった昭和51(1976)年には『知覧特攻遺品館』が開設された。昭和59(1984)年7月には知覧町から強力な要請を受けて特攻遺品館事務局長として単身赴任し,昭和61年の新館(現在の『知覧特攻平和会館』)オープンに向けて総責任者となった。新館オープンのテープカット時には『万感の思い』に,涙があふれた。新館オープン後は,基地の模型を使った板津の説明ぶりが大評判となり,いつしか『名物館長』とも呼ばれるようになった。会館へは全国各地から人が集まり,来館者も飛躍的に増えた。 信ずれば成り! まさにその使命感と信念こそが形となるのだろう。 その背中をずっと見続けてきた息子・昌利。 いつも近くて遠い父の背中。 父に甘える事なんて考えられなかった! 父はその背中に何を背負って歩き続けたのか… 息子・昌利が初めて語る父の素顔とは… また,元特攻隊員であった父の厳しくもありがたかった子育てとは… 板津の偉業の陰には,たった一人の理解者として陰になり日向になり夫を支え続けた,一途な妻・久子の姿が…。特攻慰霊の全国行脚で,最盛期には1年のうち7か月半にわたって家を空けた夫を,最後まで愚痴一つ言わずに黙って送り出した。すべて私財をなげうって続けた全国行脚であったにも関わらず…。 ただひたすら夫の無事を祈りながら,家を守り,夫を支え,子供二人を育て上げた。 そうした家族の絆を,思い出を紐解いてまいります。 日本の未来を担う経営者の皆様には, 実現不可能と思われた課題に敢然と取り組み,半世紀を掛けてそれを成し遂げた板津忠正の生きざまから情熱や勇気や元気を,そして『いばらの道』を歩き続けた彼を黙って支え続け,板津をして「妻の協力なくして知覧特攻平和会館はできなかった。」とまで言わしめた妻・久子との64年にわたる夫婦二人三脚の奮闘ぶりから成功のヒントをお持ち帰り頂きたいと思います! 4月6日は,そんな父の命日。 ありがとう。お父さん! 満開の桜の下,英霊たちと共に,屈託のない,少年のような父の笑顔がそこにあることでしょう! 合掌